なんでもいい、なんでもいいから枠がほしい。
カテゴライズされると楽になるっていうのは、きっと本当で、
誰かがつけたラベルをそっと指でなぞりながら、
「そうそうわたしってばこういう人間なんです。みなさん理解してくれよ」なんて、ひとりごとのように呟いてみる。
なんて傲慢なのだろう。
「わたしってばHSPだから繊細で傷つきやすいんです」
「わたしってばINFPだから現実が苦手なんです」
「わたしってば水星逆行の影響をモロに受けるタイプで…」
わたしってば、わたしってば、わたしってば
こうやって枠に収まると少しだけ気が楽になる。
そうかわたしが生きづらいのは、“わたし”のせいじゃないのか。
この繊細さも、この社会不適合っぷりも、もともとの資質なんだから仕方がないのか。
でも、そう思えた瞬間、少しだけ冷静になってしまう。
本当に?本当にそう?
「HSPだから」じゃなくて、「ただの過敏な人間」なんじゃないの?
「INFPだから」じゃなくて、「ただの怠け者」なんじゃないの?
「水星逆行だから」じゃなくて、「ただの段取りミス」なんじゃないの?
あなたは真面目で考えすぎる節がありますね」なんて言われたら最後
「えっそうです!わたしって真面目で考えすぎちゃうんです!」って前のめりに肯定してしまう。
だって、そう言われるのを待っていた。
「あなたってば本当に、真面目で考えすぎちゃう人間なのねえ」
そんなふうに誰かに言ってほしくて、わたしは真面目なフリをしてずっと考えすぎている。
まあ、なんて傲慢なのだろう。きもすぎる
“考えすぎる人”になったら、考えすぎることに理由ができる。
「HSPだから」「内向型だから」「双極だから」「水星逆行だから」
そうやって何かのせいにできるなら、それでいいと思っていた。
だって、そうすれば努力しなくてもいいから。
「いやいや考えすぎるのやめて現実と向き合えよ」
って言われたらどうしよう。
考えすぎるのをやめたら、わたしは何になるんだろう。
努力の出来ない言い訳おばけ
何者かでありたかった
生きづらさを抱える”繊細な特別な存在”として、
もっと大事に扱われたかった。
「あなたはあなたのままでいいよ」と、
特に努力もしないまま許される人生が欲しかった。
でも、現実はそうじゃない。
誰かに「わかるよ」と言われても、
“わかる”の次に来るのは、結局「で、どうする?」だ。
どれだけ診断名を並べても、どれだけラベルを貼っても、
それだけで生きやすくなるわけじゃない。
気づいてしまった。
でも気づいたところで、どうしたらいいのかわからない。
だから、今日も考えすぎる。
考えすぎるのをやめるという、考えすぎる行為について、また考える